【日本の建築史 第3回】西洋建築の到来 レンガ・鉄・コンクリートの時代

前回まで、日本の職人は約1200年をかけて木造の技術を磨き上げてきました。
継手(つぎて)と仕口(しぐち)で木を組み、石を積み、壁を塗る。
世界的に見ても完成度の高い体系ができあがっていました。

ところが幕末から明治にかけて、その積み上げが根底から揺さぶられます。
石を積み、鉄を組み、ガラスをはめた建物が、突然目の前に現れたからです。

第3回は、日本の建築が世界の常識と正面からぶつかった時代のお話です。

目次

明治時代に西洋建築が日本へ伝わった背景

幕末に港が開かれ、外国人が住むための居留地がつくられます。
横浜、神戸、長崎。
そこに建ったのは、日本人が見たことのない建物でした。

分厚い石やレンガの壁。上下に開く大きなガラス窓。何本もの煙突。
そして何より、木の柱が見えない

日本の大工にとって、これは衝撃だったはずです。
柱と梁で支えるのが建築だという前提が、まったく通用しない。
壁そのものが建物を支えている。
組積造(そせきぞう)という考え方です。

そして明治政府は、この新しい建築を国策として導入しはじめます。
工場、駅、役所、学校。
近代化のためには、燃えず、大きく、西洋と対等に見える建物が必要でした。

日本の大工が生み出した「擬洋風建築」とは

とはいえ、西洋の建て方を知る日本人はほとんどいません。
設計者もいなければ、レンガを積める職人もいない。

そこで各地の大工たちは、見た目だけを真似するという方法をとりました。
擬洋風建築(ぎようふうけんちく)と呼ばれる一群です。

代表例が、長野県松本市に残る旧開智学校です。
1876年、地元の大工の棟梁だった立石清重(たていしせいじゅう)が手がけました。

外観は洋風です。中央にバルコニーがあり、車寄せがあり、洋風の窓が並びます。
ところが構造はれっきとした木造で、壁は漆喰(しっくい)。
屋根には和瓦が載っています。
窓まわりの飾りは、大工が木を彫って洋風に見せたものです。

つまり、素材も技術も日本のまま、見た目だけを西洋にした建物でした。

これを「まがいもの」と切り捨てるのは簡単ですが、現場の視点で見ると評価は変わります。
写真と伝聞だけを手がかりに、見たこともない様式を、手持ちの技術で成立させてしまった。
この学習能力と応用力こそが、日本の職人の強みでした。

擬洋風建築の外観
外観は洋風、構造は木造。手持ちの技術で新しい様式を再現した

富岡製糸場に見る木骨レンガ造と日本の職人技

もう少し本格的に西洋の技術を取り入れた例が、群馬県の富岡製糸場です。
1872年、官営の模範工場として操業を始めました。

指導したのはフランス人技術者たちですが、この建物には日本側の事情が随所に刻まれています

まず、レンガがありませんでした。
日本にレンガを焼く技術がなかったので、地元の瓦職人を集めて、一から窯を築いて焼いています。
当時の瓦職人にとっては、材料も寸法もまったく違う、初めての仕事でした。

そして目地(めじ)には、セメントではなく漆喰が使われています。
これも当時セメントが手に入らなかったためです。
屋根には日本瓦が載りました。

さらに面白いのは、設計に尺貫法が使われていることです。
フランス人技師が図面を引きながら、実際に施工する日本の大工が扱える寸法体系に合わせていました。

構造そのものが折衷でした

最大の特徴は、木骨レンガ造(もっこつれんがぞう)という造り方です。

ヨーロッパのレンガ造は、レンガの壁自体が屋根や床を支えます。
ところが富岡製糸場では、木の柱と梁で骨組みを組み、その間をレンガで埋めているのです。

支えているのは木です。
レンガは壁の材料にすぎません。

これは妥協ではなく、きわめて合理的な判断でした。
柱と梁を組むのは日本の大工が1000年やってきた仕事です。
そこに新しい材料を組み込むほうが、確実で、早く、失敗が少ない。

新しい材料を、慣れた工法の中に取り込む。
現場でも、新しい建材や機械が入ってきたときに同じことをやっているはずです。

ヨーロッパのレンガ造と木骨レンガ造の構造の違いを示した図
木の骨組みが支え、レンガは間を埋める。日本の大工が出した折衷案
富岡製糸場の建物外観
レンガは地元の瓦職人が焼き、目地には漆喰が使われた

西洋建築の普及と日本人建築家の誕生

明治の初めは、設計も施工指導も外国人技術者に頼っていました。
1872年に完成した銀座煉瓦街も、イギリス人技師の設計です。

これを変えたのが、教育でした。

工部大学校に造家学科が設けられ、イギリスから招かれたジョサイア・コンドルが教壇に立ちます。
そこから育ったのが、辰野金吾(たつのきんご)をはじめとする第一期生たちでした。

辰野金吾の代表作が、1914年に完成した東京駅丸の内駅舎です。
赤いレンガに白い石の帯が横に走るデザインは「辰野式」と呼ばれ、全国の銀行や公共建築に広がりました。

ここで押さえておきたいのは、設計する人と施工する人が、はっきり分かれたという点です。

それまでの日本では、棟梁が設計も施工も統括していました。
図面らしい図面がなくても、木割(きわり)という寸法体系を共有していれば建物は建ちました。

ところが西洋式の建築では、設計者が図面を描き、施工者がそれを読んで建てます。
図面を読む力が、職人に新しく求められるようになりました。
この分業は、そのまま現在の設計事務所とゼネコンの関係につながっています。

セメント・鉄・鉄筋コンクリートが変えた日本建築

材料の面でも、大きな変化が起きました。

セメントは当初すべて輸入品でしたが、1875年に官営工場で国産化に成功します。
これで基礎や目地に使える材料が手に入るようになりました。

鉄も同様です。
官営の製鉄所が整備され、鉄骨を使った工場や橋がつくられていきます。

そして明治の終わりごろ、鉄筋コンクリートが登場します。

これは、コンクリートと鉄筋という2つの材料の弱点を打ち消し合う、非常によくできた仕組みです。

コンクリートは押しつぶす力にはめっぽう強いのですが、引っぱられるとあっけなく割れます。
一方の鉄は引っぱりに強いけれど、錆びるし熱に弱い。

そこで、引っぱられる側に鉄筋を入れて、コンクリートで包んでしまう
鉄筋は錆びず、火にも守られ、コンクリートは割れなくなります。

鉄筋コンクリートの梁に荷重がかかったときの力の流れを示した図
押される側はコンクリート、引っぱられる側は鉄筋が受け持つ

この工法が広まったことで、鉄筋を組む職人型枠をつくる職人という、それまで存在しなかった仕事が生まれます。

そして型枠は、木でつくります。
つまり大工の技術が、そのまま新しい建築に必要とされたということ。
型枠大工という職種は、こうして誕生しました。
古い技術が新しい工法の中で生き残った、わかりやすい例だと思います。

関東大震災で変わった日本の耐震建築

1923年9月1日、関東大震災。

このとき、明治以降に建てられたレンガ造の建物が、各地で倒壊しました。
浅草のシンボルだった凌雲閣(りょううんかく)も上部が崩れ落ち、解体されています。

理由は構造にあります。レンガは目地のモルタルで接着されているだけです。
横に激しく揺すられると、目地から切れて、ブロックがばらばらになって落ちてしまう。

一方、木の軸組は仕口が少しずつ動いて形を変え、揺れの力を逃がします。
傾いても、一気に崩れ落ちることは多くありません。

地震の国では、積む構造は不利だった
日本が1000年以上にわたって木でつくり続けてきたことに、あらためて理由があったわけです。

レンガ造と木造軸組が地震で受ける挙動の違いを示した図
レンガは目地で切れて崩れ、木の軸組は変形しながら耐える

世界に先んじた耐震規定

ただし、この震災は日本の建築を後退させませんでした。むしろ逆でした。

震災前の1914年、佐野利器(さのとしかた)という研究者が震度法という考え方を発表しています。
地震の力を、建物の重さに一定の係数をかけた水平方向の力として計算する方法です。

震災の翌1924年、この考え方が市街地建築物法の改正に取り入れられ、建物の耐震設計が法律で義務づけられました

これは世界で最初の耐震規定だとされています。
地震を経験した国が、経験を制度に変えた。
ここから日本の建築基準は、地震のたびに更新されていく歴史をたどることになります。

なお、東京駅は震災で被害を受けたものの、倒壊はしませんでした。
レンガの中に鉄骨が組み込まれていたためだと考えられています。

東京駅丸の内駅舎の正面外観
辰野金吾の代表作。レンガに鉄骨を併用した構造だった

西洋建築によって生まれた新しい建築職人と仕事

この時代、現場で働く人の顔ぶれが大きく変わりました。

新しく生まれた職種があります。
レンガ工、鉄骨を扱う鉄工、鉄筋工、型枠大工、そしてコンクリートを打つ職人です。

一方で、求められる能力も変わりました。図面を読めることが前提になったのです。
それまでは棟梁の指示と経験で動けましたが、設計者の描いた図面を正確に理解しなければ仕事にならなくなりました。

現場を管理する役割も生まれます。
工程を組み、複数の職種を調整し、品質を確認する。
今でいう現場監督の原型です。

そして1919年、市街地建築物法が制定されます。
建物の建て方に、国が基準を定めるようになった最初の法律です。
建築が「自由につくるもの」から「基準を満たすもの」に変わった転換点でした。

明治大正期に建てられたレンガ造建築
一時代を築いたレンガ造は、震災を境に主役の座を降りていく

現代の建築現場に受け継がれた明治・大正時代の技術

設計と施工の分離: 図面を描く人と建てる人が分かれました。この関係は現在も変わりません。

図面を読む力: 職人にとって必須の技能になりました。

建築の法規制: 市街地建築物法から始まり、現在の建築基準法へとつながっています。

型枠工事と鉄筋工事 :どちらもこの時代に生まれた職種です。型枠が木でつくられるのは、今も基本的に変わりません。

耐震という考え方 :地震の力を数値で扱い、設計に反映させる。日本の建築の根幹になりました。

現場監督という役割: 複数の職種を束ねて工程を回す仕事が、ここで確立します。

西洋建築を取り入れて進化した日本の建築

明治から大正にかけて、日本の建築は外から来た技術と正面衝突しました。
そして、こう対応しています。

まず、見た目だけを真似てみました。
次に、新しい材料を慣れた工法の中に取り込みました。
やがて自分たちで設計できる人材を育て、最後に、地震という日本固有の条件に合わせて技術そのものを組み替えました。

まるごと受け入れたのでも、拒んだのでもありません。
使えるところを取り込み、合わないところは作り替えた。
この50年間の対応の仕方は、今の現場が新しい技術や工法と向き合うときの参考にもなりそうです。

そして関東大震災を経て、日本の建築は次の段階へ進みます。
鉄とコンクリートを使いこなし、上へ伸びていく時代です。

次回予告

第4回:鉄とコンクリートで高くなる(戦後〜昭和)

「日本では高い建物は建たない」という常識が、どのように破られたのか。
東京タワー、国立代々木競技場、そして日本初の超高層ビルとなった霞が関ビル。
高さ制限の撤廃と柔構造理論、鉄骨建方とコンクリート圧送。
そして鉄筋工・型枠工・鳶といった職種が現在の形に固まっていく過程を見ていきます。

※建築の年代や数値については諸説あるものがあり、本記事では一般に広く紹介されている説をもとに記述しています。

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この記事を書いた人

現場ナビの中の人

・これまでに10回以上の転職を経験
・出版社、IT業界、製造業など、多くの業界を経験

「長く安定して働ける仕事を見つける」
そのためには、未知の世界に飛び込む勇気も必要だと考えます。

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