【日本の建築史 第2回】職人の技が極まる時代|木を組み、石を積む
前回は、日本の建築が「木でつくる」「柱と梁で支える」という基本のかたちを決めた話でした。
そこから先、日本は約800年をかけて、その型をとことん磨き込んでいきます。
釘を使わずに木を組み合わせる技術、巨大な石を積み上げる技術、壁を塗り固める技術。
今の現場で「刻み」「墨付け」「法面」と呼んでいる作業の原型のほとんどは、この時代に完成しました。
第2回は、日本の職人がいちばん腕を上げた時代の話です。
平安時代、日本独自の建築様式『和様』が発展
平安時代のはじめ、日本は遣唐使を送るのをやめます。
これにより、大陸から新しい技術が入って来なくなりました。
普通に考えれば後退しそうなものですが、実際には逆。
手本がなくなったことで、日本は日本の気候と好みに合わせて建築を作り替え始めます。
大陸の建築は、屋根の反り返りが強く、部材も太く、装飾が濃い。
それを日本は、屋根の勾配をゆるめ、水平線を強調し、部材を細くしていきました。
「和様(わよう)」と呼ばれるスタイルです。
理由は美意識だけではありません。
日本のほうが雨が多く、地震が多く、木が細い。
太い部材を大量に使う建て方は、そもそも成立しなかったのです。
制約が様式を決めました。
平等院鳳凰堂の建築とは?平安時代を代表する「極楽浄土」の建築
この時代を象徴するのが、京都・宇治の平等院鳳凰堂です。
1053年に藤原頼通が建てた、10円硬貨に描かれているあの建物です。
中央の建物から左右に翼のような廊が伸び、その先が折れ曲がって手前に出る。
この左右対称の構成が、水面に映ることまで計算されています。
現場目線で面白いのは、翼にあたる廊が実際には人が使えないほど狭いということです。
屋根が低く、中を歩けない。
つまりこれは、機能ではなく「見た目のためだけに作られた構造体」なのです。
平安時代の貴族が求めたのは、極楽浄土をこの世に再現することでした。
そのために、使えない建物をわざわざ建てた。
建築が実用を超えて表現になった瞬間だと言えます。

日本の木造建築を支えた『継手・仕口』とは
さて、ここからが職人の話です。
日本の木造建築の核心は、木と木を金物なしでつなぐ技術にあります。
大きく分けると2種類です。
継手(つぎて) は、材を長さ方向につなぎ足すこと。短い材をつないで長い梁にする。
仕口(しぐち) は、材を角度をつけて交差させること。柱と梁が直角に組み合わさる部分。
どちらも、木の端を複雑な形に削り出して、パズルのように噛み合わせます。
腰掛鎌継ぎ、追掛大栓継ぎ、金輪継ぎ、蟻掛け、渡り顎——
形ごとに名前がついていて、その数は数十種類にのぼります。
なぜ釘を使わなかったのか
「技術が未熟で釘がなかった」わけではありません。
鉄の釘は古代からありました。使わなかったのには理由があります。
① 鉄は錆びて痩せる
湿気の多い日本では、鉄はやがて錆びて細くなります。
数百年もたせる建物で、いちばん弱い部分が金属になってしまいます。
② 木は動く
木は乾燥すると縮み、湿気を吸うと膨らみます。
硬く固定すると、その動きで木が割れる。
わずかに動ける状態にしておいたほうが、結果的に壊れないのです。
③ 地震で粘る
接合部が少しずつずれ、木同士がこすれ合うことで、揺れのエネルギーが熱に変わって消えていきます。
ガチガチに固めた構造より、粘り強くなります。
現代の木造住宅は金物で補強するのが標準ですが、それは建てる速さと品質の安定を優先しているから。
考え方が違うだけで、どちらが正しいという話ではありません。
道具が変われば、建物が変わる
継手・仕口が飛躍的に発達した背景には、道具の進化があります。
室町時代ごろ、大鋸(おが)という大型の縦挽き鋸が普及します。
それまで木材は、クサビを打ち込んで割り、表面を削って板にしていました。
しかし効率が悪く、太い木から少ししか板が取れません。
大鋸が入ると、丸太を縦に挽いて板を大量に取れるようになります。
製材の生産性が一気に上がりました。
さらに台鉋(だいがんな)が登場し、木の表面を平滑に仕上げられるようになります。
これにより、それまでの槍鉋(やりがんな)では出せなかった精度を出すことが可能に。
精度が出れば、より複雑で密着した継手が刻めるようになります。
道具の進化が技術を押し上げ、技術が建築の可能性を広げる。
現場に新しい機械が入ると仕事のやり方が変わるという経験は、この時代からずっと繰り返されてきたことです。

「大工」の誕生 | 建築職人が専門化した時代
技術が高度になると、それを扱う専門職が必要になります。
中世、寺社や城を建てる職人集団は番匠(ばんじょう)と呼ばれ、やがて「大工」という言葉が職人の呼び名として定着していきます。
もともと「大工」は組織の長を指す役職名でした。今でいう棟梁であり、現場の職長です。
そして重要な発明が生まれます。木割(きわり)です。
これは、柱の太さを基準にして、梁の高さ、軒の出、部屋の大きさまで比例で決めてしまう設計手法です。
「柱の幅の何倍」という形ですべてを規定します。
何がすごいかというと、設計図がなくても、寸法の基準さえ共有すれば大人数で分担できるようになったこと。
しかも品質が揃います。
これは現代のモジュール設計そのものです。
日本の住宅が今も910mmグリッド(半間)で設計されているのは、この延長線上にあります。
職種が分かれていく
建物が大規模化・複雑化するにつれ、仕事が細分化していきます。
- 大工 — 木を刻み、組み立てる
- 木挽(こびき) — 丸太を製材する
- 鳶 — 足場を組み、重量物を上げる
- 石工 — 石を切り出し、加工し、積む
- 左官 — 壁を塗る
- 屋根葺き — 瓦や檜皮を葺く
今の現場で当たり前になっている職種の骨格が、この時代にほぼ出揃いました。
あなたの職種名は、500年以上前から使われている言葉かもしれません。
戦国時代の城を支えた石垣の技術と積み方
そしてもうひとつ、この時代に爆発的に発達したのが土木技術でした。
きっかけは戦争です。
戦国大名たちは、鉄砲に耐え、大軍を防ぐ城を必要としました。
土を盛っただけの砦では足りず、石を積む必要が出てきます。
石垣の積み方は、時代とともに精度が上がっていきます。
野面積み(のづらづみ) は、自然石をほとんど加工せずに積む方法。
荒く見えますが、隙間が多いので水はけが良く、意外と崩れにくいです。
打込接ぎ(うちこみはぎ) は、石の角を叩いて整えてから積む方法。
強度と施工性のバランスが良く、多くの城で使われました。
切込接ぎ(きりこみはぎ) は、石を四角く加工して隙間なくぴったり積む方法。
見た目は圧倒的に美しいのですが、水が抜けにくいので排水の工夫が必要になります。
石垣づくりのプロ集団
これを担ったのが、近江(現在の滋賀県)を拠点とした穴太衆(あのうしゅう)などの石工集団でした。
彼らは大名に召し抱えられ、各地の城の石垣を手がけます。
彼らの技術で決定的なのは、見えない部分です。
石垣の裏側には、栗石(ぐりいし)という小石を大量に詰めた層があります。
これが水を抜くのです。
石垣が崩れる原因のほとんどは、雨水が裏に溜まって土圧が上がること。
まさに、目に見えない工夫です。
さらに、石垣の面は下が急で上に向かって反り返る「扇の勾配」という曲線を描きます。
安定と防御を両立させた形です。
排水を確保し、勾配で土圧を受ける。
これは今の擁壁工事や法面工事とまったく同じ考え方です。
400年前の石工が経験でたどり着いた答えに、現代の土木が理屈で追いついたと言ってもいいでしょう。

姫路城に見る木造建築と石垣・左官の技術
そして、この時代の到達点が姫路城です。
1609年、池田輝政によって現在の姿に完成しました。
戦火にも震災にも遭わず、築400年の姿がほぼそのまま残っているという点で、世界的にも稀な建物です。
白い壁の正体
姫路城が「白鷺城」と呼ばれるのは、壁だけでなく屋根の瓦の目地まで白い漆喰で塗り固めてあるからです。
総塗籠(そうぬりごめ)と言います。
これは美しさのためだけではありません。防火対策です。
木造の建物を、燃えない土と石灰で覆ってしまう。
火矢や鉄砲、そして失火から建物を守る発想でした。
左官の技術が、そのまま防災性能になっていたわけです。
25mの柱をどう立てたか
大天守の内部には、東西2本の大柱が地階から最上階まで通っています。高さは約25m。
問題は、そんなに長い木は存在しないということです。
そこで、複数の木材を継ぎ合わせて1本の柱にしています。
前半で見た継手の技術が、ここで効いてくる。
継手がなければ、この高さの天守は建ちませんでした。
なお、この大柱は昭和の大修理で交換されています。
1本の巨木では足りず、木曽と地元の木を継いで作られました。
400年後の職人も、同じ問題に直面したわけです。

茶室と数寄屋建築に見る日本の職人技
同じ時代、まったく逆の方向に進んだ建築もあります。茶室です。
千利休がつくったとされる京都・妙喜庵の待庵は、わずか二畳。
壁は土をそのまま見せ、柱には皮のついた丸太を使い、天井は低くなっています。
城が「大きく、強く、美しく」を目指したのに対し、茶室は削れるだけ削る方向へ進みました。
面白いのは、これが規格からの意図的な逸脱だという点です。
木割で寸法が体系化された時代に、あえてそれを崩す。
曲がった木を曲がったまま使う。
この仕事には、規格品を正確に刻むのとは別の腕が必要です。
材ごとに違う癖を読んで、その場で判断する能力。
ここから数寄屋大工という専門分野が生まれました。
「マニュアル通りにやる技術」と「その場で判断する技術」。
現場で今も問われる2つの能力が、この時代に分かれたと言えます。

現代の建築現場にも受け継がれる日本の伝統技術
継手・仕口
プレカット工場が機械で刻む形は、職人が手で刻んでいた形とほぼ同じです。
名前も変わっていません。
木割=モジュール設計
910mmグリッド、尺貫法、規格材。すべてこの発想の子孫です。
棟梁と職種の分業
現場を統括する人がいて、専門職が分かれて動く。
この体制はこの時代に確立しました。
排水を第一に考える土木
石垣の栗石は、今の擁壁の水抜き孔や裏込め材と同じ役割です。
左官による防火
漆喰や土で木を覆う発想は、現在の耐火被覆に通じます。
日本の建築技術と職人文化が発展した800年
古代に決まった型を、この時代の職人は徹底的に磨き上げました。
- 木を金物なしで組む技術が数十種類に体系化された
- 道具の進化が精度と生産性を押し上げた
- 木割によって、大人数で品質を揃えて作れるようになった
- 石を積む土木技術が戦争を機に飛躍した
- 大工・鳶・石工・左官という職種の骨格が固まった
ここまでが、日本が自力で到達した完成形です。
そしてこの直後、日本はまったく違う建築と出会うことになります。
石とレンガと鉄でできた、西洋の建築です。
積み上げた800年の技術が、根底から揺さぶられる時代がやってきます。
次回予告
第3回:西洋が入ってきた(明治〜大正)
レンガを積み、鉄を組み、ガラスを入れる。
見たこともない建物を、日本の大工はどうやって建てたのか。
富岡製糸場に残る「木とレンガの折衷」、東京駅を設計した日本人建築家、そして関東大震災が突きつけた課題。
日本の建築が世界の常識と正面からぶつかった時代を見ていきます。
※建築の年代や寸法については諸説あるものがあり、本記事では一般に広く紹介されている説をもとに記述しています。

