【日本の建築史 第4回】鉄とコンクリートで高くなる 31mの壁を越えた日

前回は、日本の建築が西洋の技術とぶつかり、それを取り込んでいった時代のお話でした。
レンガは関東大震災で退場し、代わりに鉄筋コンクリートと鉄骨が主役の座につきます。

そして戦後、日本の建築は一気に上へ伸びていきます。
ただしそこに至るには、法律の壁と、技術の壁の両方を越える必要がありました。

第4回は、日本の街の姿が根本から変わった時代のお話です。

目次

戦後復興で変わった日本の住宅と建築技術

終戦直後、日本には約420万戸の住宅が不足していたと言われています。
都市は焼け、資材も職人も足りない。

このときの最優先課題は、美しさでも高さでもなく、とにかく数をつくることでした。

1951年、公営住宅の標準設計として「51C型」と呼ばれる間取りが定められます。
狭い面積でも、寝る場所と食べる場所を分ける。
この考え方から生まれたのが、日本の住宅に定着したダイニングキッチンです。

同じ発想は、住宅公団の団地にも引き継がれました。同じ間取りを大量に、同じ手順で建てる。
部材を規格化し、現場での作業を減らす。
プレハブ工法が広まったのもこの時期です。

第2回で見た木割(きわり)は、寸法を体系化して大人数で品質を揃える仕組みでした。
規格化して量産するという発想そのものは、日本の建築が昔から持っていたものだと言えます。
材料が木から鉄とコンクリートに変わっただけです。

日本の高層建築を阻んだ31mの高さ制限

戦後しばらく、日本のビルはどれも同じような高さで揃っていました。理由は法律です。

1919年の市街地建築物法以来、建物の高さは百尺、およそ31mが上限と定められていました。
階数にすると8階から9階くらいです。

制限があった理由は、消防のはしごが届く高さという実務的な事情と、地震への不安でした。
当時の技術では、それ以上高くすると地震で持たないと考えられていたのです。

この規制は戦後の建築基準法にも引き継がれ、1963年の改正まで続きました。
丸の内や日本橋の古いビルの高さが揃って見えるのは、この規制のためです。

31m規制と東京タワー・霞が関ビルなどの高さを比較した図
1963年の法改正で高さ制限がなくなり、10年ほどで街の姿が変わった

東京タワーに見る日本の鉄骨建築と職人技術

1958年、その31mの世界に、高さ333mの塔が出現します。東京タワーです。

建物ではなく塔なので高さ制限の対象外でしたが、日本の職人が鉄をここまで組めるということを、誰の目にも見える形で示した出来事でした。

構造設計は、それまでも数多くの鉄塔を手がけてきた内藤多仲(ないとうたちゅう)。
施工は竹中工務店です。
使われた鋼材はおよそ4000トンにのぼります。

現場の視点で見ると、この工事は鳶職の仕事でした。

当時、高所での鉄骨組み立ては、ほぼ人力です。
クレーンで吊り上げた部材を、高所で待つ職人が受け取り、位置を合わせ、穴を通してボルトやリベットで留める。
焼いて赤くしたリベットを下から放り投げ、上でつかんで打ち込むという作業も行われていました。

命綱はありましたが、現在のフルハーネスのような装備ではありません。
それでも工期を守り、高い安全水準で完成させたことが、後々まで語り継がれています。

下から見上げた東京タワー
333mの鉄塔。高所での組み立てはほぼ人力で行われた

超高層ビルを可能にした「柔構造」と耐震技術

高い建物が建てられなかった最大の理由は、地震でした。

それまでの考え方は剛構造、つまり建物を硬く頑丈につくって、地震の力に正面から抵抗するというものです。

ところがこの方法には限界があります。
高くするほど部材を太く重くしなければならず、重くなればなるほど地震で受ける力も増える。
自分の重さで行き詰まってしまうのです。

そこで登場したのが、柔構造という考え方でした。
中心となったのは、構造学者の武藤清(むとうきよし)です。

硬くするのではなく、建物をわざとしならせる。
ゆっくり大きく揺れることで、地震の力がまともに伝わらないようにする。
しなやかに受け流すという発想です。

この話、どこかで聞いた覚えがないでしょうか。

第1回で紹介した五重塔の心柱(しんばしら)です。塔本体と心柱が別々に揺れて、力を打ち消し合う。
日本の職人が1400年前に経験でたどり着いていた答えに、20世紀の構造力学が理論として追いついたわけです。

剛構造と柔構造の地震時の挙動の違いを示した図
硬く固めるのではなく、しなって揺れを受け流す。この転換が超高層を可能にした

1963年、建築基準法が改正され、高さ制限が撤廃されます。
代わりに導入されたのが、敷地面積に対する延べ床面積の比率で規制する容積率という考え方でした。

技術と法律が揃い、ようやく日本に超高層ビルが建つ条件が整いました。

霞が関ビル 日本初の超高層ビルを支えた建築技術

1968年、東京・霞が関に地上36階、高さ147mのビルが完成します。
日本初の超高層ビル、霞が関ビルディングです。

構造設計は武藤清。柔構造の考え方が、初めて実際の建物に適用されました。

技術的な工夫の一つが、スリット壁です。
コンクリートの壁にわざと切れ目を入れておく。こうすると、壁が硬くなりすぎず、地震のときに適度に変形して力を逃がせます。
あえて弱い部分をつくることで全体を守るという、逆転の発想でした。

現場のやり方も変わりました

この工事は、施工の面でも転換点になりました。

鉄骨の多くが工場で加工されてから現場に運ばれるようになります。
現場は組み立てに専念する。
工程が読みやすくなり、工期が大幅に短縮されました。

高い位置まで資材を上げるため、タワークレーンが本格的に使われはじめます。
コンクリートを高所まで送る圧送技術も進歩しました。

現場で一から刻む仕事から、工場でつくられた部材を正確に組み上げる仕事へ。
職人に求められる技能の中身が変わっていった時期でもあります。

タワークレーンが立つビルの建設現場
工場で加工した鉄骨を現場で組み上げる。施工のやり方が根本から変わった

国立代々木競技場に見る吊り構造と大空間建築

同じ時期、まったく違う方向の挑戦も行われていました。

1964年の東京オリンピックに合わせて建てられた国立代々木競技場です。
設計は丹下健三、構造は坪井善勝(つぼいよしかつ)が担当しました。

この建物の屋根は、柱で支えられていません。
2本の柱の間に太いケーブルを渡し、そこから屋根を吊り下げています。吊り橋とまったく同じ原理です。

なぜこうしたかというと、競技場では観客席の真ん中に柱を立てられないからです。
梁で飛ばそうとすれば、途方もなく太い梁が必要になります。

ケーブルは引っぱる力にだけ働くので、細くても十分な強度が出ます。屋根そのものも軽くできる。
柱のない大空間が実現しました。

ふつうの梁で支える屋根と吊り構造の違いを示した図
吊り橋と同じ原理で屋根を吊る。柱のない大空間が生まれた

竣工から60年以上が経ちますが、今も現役で使われています。
2021年の東京オリンピックでも競技会場になりました。

高度経済成長期に変化した建設現場と職人の仕事

1960年代から70年代にかけて、日本は建設ラッシュを迎えます。
新幹線、高速道路、ダム、工場、団地。
現場はいくらでもあり、人手がとにかく足りませんでした。

このなかで、職種が現在の形に固まっていきます。
鉄筋工、型枠大工、鳶、圧送、溶接工、重機オペレーター。
それぞれが専門技能を持ち、工程に応じて現場に入る体制です。

一方で、深刻な問題も起きていました。労働災害の多さです。
高所からの墜落、重機による事故、崩落。
工期優先で安全が後回しにされる現場が少なくありませんでした。

1972年、労働安全衛生法が制定されます。
それまで労働基準法の一部だった安全衛生の規定が独立した法律になり、事業者の責任、作業主任者の選任、健康診断などが体系的に定められました。

ヘルメットや安全帯の着用が現場の当たり前になっていくのも、この前後のことです。
今の現場にある安全のルールは、この時代の犠牲の上に組み立てられていると言っていいと思います。

中銀カプセルタワーとメタボリズム建築

もう一つ、この時代を象徴する建物に触れておきます。

1972年に完成した中銀カプセルタワービル。設計は黒川紀章です。
140個の箱型の部屋が、中央の柱に取り付けられていました。

発想はこうです。部屋が古くなったら、そのカプセルだけを外して新しいものと交換する。
建物は生き物のように新陳代謝を繰り返しながら使い続けられる。
メタボリズムと呼ばれた考え方でした。

これも、実は目新しい発想ではありません。
第1回で見たとおり、日本の木造建築は傷んだ部材だけを取り替えて1300年もたせてきたからです。
その発想を、工業製品で実現しようとした試みでした。

ただし現実には、カプセルが交換されることは一度もありませんでした。
老朽化が進み、2022年に解体されています。

思想としては正しくても、交換する仕組みと費用を確保できなければ続かない。
建物を長く使うとはどういうことか、考えさせられる事例です。

現代の建設現場に受け継がれる昭和の建築技術

柔構造という考え方
現在の超高層ビルの設計は、すべてこの延長線上にあります。

部材の工場加工と現場組み立て
プレキャストコンクリート、ユニット化、プレカット。現在の施工の基本的な流れです。

タワークレーンと圧送
高層の現場になくてはならない技術です。

専門職種の体制
鉄筋、型枠、鳶、溶接、圧送。現在の分業体制はここで固まりました。

労働安全衛生法
安全教育、作業主任者、KY活動。現場の安全管理の枠組みができました。

容積率という規制
高さではなく床面積で規制する考え方は、今も都市計画の基本です。

日本の建築が超高層化した時代

戦後から昭和の終わりにかけて、日本の建築はこう変わりました。

まず、数をつくるために規格化と量産を進めました。
次に、柔構造という発想の転換で高さの限界を突破しました。
そして施工では、工場加工と現場組み立てという分業が定着しました。

同時に、安全という考え方が制度になった時代でもあります。
技術が伸びた分だけ危険も増え、それを法律で押さえ込む必要がありました。

高さと速さを追い求めた時代。
次はその反動として、壊れないことと、長く使うことへ関心が移っていきます。
そのきっかけになるのが、1995年の阪神・淡路大震災でした。

次回予告

第5回:今の現場ができるまで(平成〜令和)

阪神・淡路大震災が変えた耐震の考え方。免震と制震はどう違うのか。
東京スカイツリーに採用された五重塔の原理。
あべのハルカスと国立競技場。
そして、鉄とコンクリートの時代を経て、なぜいま木造が見直されているのか。
現在の現場がどうやって形づくられたのかを見ていきます。

※建築の年代や数値については諸説あるものがあり、本記事では一般に広く紹介されている説をもとに記述しています。

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この記事を書いた人

現場ナビの中の人

・これまでに10回以上の転職を経験
・出版社、IT業界、製造業など、多くの業界を経験

「長く安定して働ける仕事を見つける」
そのためには、未知の世界に飛び込む勇気も必要だと考えます。

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